日々に追われて

あっという間の5月が過ぎて、6月1日に肌寒かったパリから猛暑日の京都へ戻りました。
たいした時差ぼけもなく、暑さにも悩まされることなく、普段の暮らしに戻りました。
溜まっていた家事などをこなしながら、義父の不調の愚痴の相手をし、気が付けば7月です。

外国で暮らすという経験を持つことができ、文化の違いはあらゆるところで感じてきました。
忘れないうちにどうしても書き留めておきたいことがあります。

日本にいて言葉の壁を感じることはありませんが、初めて旅行ではなくその町で暮らすという経験をして、言葉の壁というものがどれ程人を不安にするものかを知りました。
例え片言でも母国語を話す人に出会った時、どれ程うれしいものか。
言葉の不安というものは大きなストレスになります。
しかし!
言葉の壁を物ともせず、打ち解けることのできる事柄がありました。
それは同好の士とでもいいますか、同じ事柄に関心を持つ者同士は言葉の壁も乗り越えられるということでした。


娘の家の向かい側に「RULIURE−DORURE」と書かれたお店がありました。
これは「製本・金押」という意味です。
私は製本の工房の前でひと月暮らしていたのです。
そのことに気付いた私はどうしても中を見てみたくなりました。
言葉は通じないかもしれませんが、ドアをノックしました。


扉を開けてくださったのはこの人、エステルさん。
私の持参した作品(孫のために作ったアルバムや和綴じのノート)を見せて「これは私が作りました」←片言のフランス語
彼女はそれを見るとにこやかに「○○△△・・・」←フランス語
彼女は英語も話せました「英語はわかりますか?」「少しなら」←片言の英語
交渉成立、私は彼女の工房で本の修復という工程を教わることになりました。


初めて見る工具


初めて触る古い本
最初の日は古い本を解体するところから。
1ページづつ糸を切り、のりをはがす。
「たいくつですか?」←英語
「ワクワクしています」←片言英語(大げさな身振りつき)
こんな風に始まりました。


破れた所には和紙を張って修復します

[
]綴じ糸で傷ついたところも和紙を張ります

[
]全てのページを補修しました。
根気のいる仕事です。
でも楽しくて、楽しくて、いつまでも続けていたい時間でした。
傷んだところの補修が済めば、元通りの本に仕立て直します。
私にはエステルさんのもとに通う時間は限られていました。
この作業にどれだけの時間がかかるかもわかっています。
彼女も私の限られた時間の中で、特に経験させたいと思うことを選んで指導してくれました。
言葉があやふやでも、気持ちの中で通じるものがあったから出来た指導だと思います。
3日間、合計10時間のレッスンでした。


これは本の表紙のない状態です。
1枚づつ分解したページは元通り閉じてあります。
ここまで本を修復させてもらいました。
表紙をつけたり、花ギレを編んだりすることは日本でも経験していましたからその部分は私が帰国した後、エステルさんが続けることになりました。

作業の間に、雑談もするのです。
持って帰ったカメラの動画にはフランス語と英語と日本語の飛び交う不思議な会話が残っています。
雑談その1
彼女は日本びいきでした。
紙に直方体の絵を描いて、楕円を描きます。
「日本のガトー」←英語とフランス語
「赤いアリコ」←英語とフランス語
「あぁ〜。羊羹ですね。夜の梅っていいます」←日本語
「ようかん、トテモ、オイシイ」←片言の日本語とフランス語

雑談その2
「日本は安全なのか?」←英語
どうやら原発について関心が高いようです。
私の英語力では詳しく話すこともままならず、なんとか
「私の住む京都は安全です」
初対面の日本人に歯に衣着せぬ質問でした。
議論することの好きなフランス人らしいと思いました。
また、よその国で起こったことでも関心があればしっかりと意見を言ってくる。
「日本の政府は何でも口にチャックよね」←大きな身振りと英語でした。

ほかにも音楽の話をしたり、宮崎駿さんの名前はすぐにわかってもらえました。
言語を越える言語が音楽や芸術なのですね。
世界スタンダードというものが在ることも身をもって経験しました。

別れるときはちょっと辛かったです。
それほど濃密な時間を過ごしました。

「ここはあなたの工房だと思っていつでも来てください」と言ってもらいました。
「次に会うときはフランス語で話しましょう」とも・・・

3人の孫を持つおばあちゃんのパリ武者修行の記録です。
楽しかったなぁ〜〜〜